最近ある権力の中枢にある者の汚職が発覚し、逮捕された。強大な公権力を行使していた人である。
汚職が成立するのは、一般論として、賄賂としての金品の授受によって、利益供与の関係が成立することが基本条件である。 公権力というものは国民から負托された権力である。それを片々たる金品を受け取って、私意を以て抂げることは許さる可きことではない。
天明四年(1784年)三月二十四日、江戸城中の桔梗の間において、徳川幕府の若年寄(重役)の田沼意知が、新番士(幕府の武官)佐野善左衛門 によって斬殺された。
この一事によって、一世を風靡した田沼意次の賄賂政治が終りを迎えることになった。 その死は、ただに田沼意次の子息である若年寄田沼意知の物理的死であるばかりではなく、徳川十代将軍家治を頂点とした積極財政の政策と それを推進した老中田沼意次の所謂賄賂政治の終焉をも意味した。
殿中での刃傷は、徳川幕府の強い禁制であり、元禄年間の淺野内匠頭の事例(忠臣蔵で有名)をみるとおり、家禄は没収、その身は切腹・その 家は断絶という厳しい処分が待っているにもかかわらず、敢て刃傷に及んだ佐野善左衛門の心情には、武士として止むにやまれぬ意地のような ものがあったのだろう。 刃傷の後、取調の役人に善左衛門は次のようにいっている。
「自分は田沼親子に引き立てて貰おうと、多額の金子を贈ったが、何の音沙汰もない。そればかりか、意知が佐野家の系図書を見たいというので、貸したところ、 幾ら催促しても返して呉れない。系図書は我が家の先祖の魂であり、武士の生命でもあるので、返して呉れない上は是非もない。打ち果たす ほかはないと覚悟して刃傷におよんだ。」と申し立てた。
これは幕府の公式記録に載った善左衛門の供述書である。
善左衛門の申し立てている佐野家の系図書きなるものは、今日的視点から視れば何の価値もないと言うほかないが、二百年前の価値観からいえば 大層なものだったのである。
善左衛門の遠祖は、「鉢の木」で有名な佐野源左衛門常世であり、鎌倉時代以来の名流の系図書は、命を捨ても奪還したいものだったのである。
かくまでしても意次・意知はこの系図書が欲しかったのか、その答は田沼家の出次にある。それは余りにも低かったからである。 田沼意次・意知の家は、意次の父意行以来の家であり、それ以前のことは全く判らない。
意行は最初紀州家に仕え、その身分は足軽であったという。
利溌であったその子の意次は、つてを頼って九代将軍家重の小姓となり、言語障害のあった将軍家重の意志伝達機関として次第に信任を得、遂に累進して大名となる。
家重薨ずるにおよび、その遺言によって十代将軍家治の側臣に選ばれ、明和四年(1767年)七月側用人、八月老中格に任ぜられて政務の大綱を統べることになった。
殊には安永元年(1772年)老中に昇任せられその子意知も若年寄に就任するにおよんで、意次の威権は正に草木も靡くような勢となった。
然し哀しいことに、意次は門地家柄というには余りもみすぼらしい家であった。 徳川の代も十代家治将軍の頃ともなると、社会の仕組みそのものが硬直化しており、門閥家柄によって役柄役目が決まるという時代でもあったので、意次はなんとかして 自分の出次を飾りたい気持が強かったろうことは、容易に想像出来ることである。
そこへ出世をしたくて賄賂を持参して近付いて来た善左衛門が、下野の名門佐野家の後裔であるから『しめた』と思ったに違いない。早速その系図書を『拝見したい。』 といって捲上げてしまった。
善左衛門が訝しいと気付いて、返せと交渉しても意次も意知も相手にして呉れない。
普通の男ならここで『出世させて呉れるなら』ということで手を打つところだが、悪いことに善左衛門は、そんなことで泣き寝入りする男ではない。
『この上は刀にかけても』と思い込んだ。
そこで一番邪魔の入らない退出時の意知を狙うことにした。
然かも江戸城中においてである。
勿論そんなことをすれば身の破滅であるが、憎い田沼老中も道連れに出来ると踏んだのであるから、もう捨身の覚悟である。
さりとは知らない意知は、お坊主に先払いさせて退出のため中の間まで歩を運んで来た。
柱の蔭でやり過した善左衛門は、一躍して脇指の一撃を意知の右肩に叩き付けた。
「日ごろの意恨、おぼえたか。」
仰天したのは意知だ。
悲鳴をあげ、這うようにして桔梗の間へ転げ込んだ。
追かけて血刀を振りかぶった善左衛門は、腰の抜けたような有様で仰向けに倒れ込んだ意知の内股を深かぶかとえぐった。
意知はその場で絶命はしなかったが、かつぎ込まれた自邸において落命した。
結果。佐野善左衛門は切腹・意知の父、田沼意次はお咎めなしということだったが、そうは都合良くは運ばなかった。遂に五月二十一日意次は老中並に側用人を辞して、 賄賂政治の悪評髙かりき田沼政治はここに終りを告げた。
近時田沼意次の政治の積極財政政策を称賛する者もあるが、士大夫たるもの、賄賂をとって政治を行っては絶対駄目である。
何の価値もない。すべからく政治は清潔でなければならない。
当時。武士階級は生産活動に関わりなく、全くの消費生活者ではあったが、農工商の市民の上にあるという意識と、名を惜しむという士道精神は、日本を支える大きな 無形の精神作用の役割を果たしていたことも事実である。