佛典に説く言葉である。あらゆる人々はひとしく佛性を具えていると、理解されているが、これを動物にまで拡げて解釈しなければならないのだが、人はそこまでは考えない。
去る8月下旬の或る日、その日は、南米アルゼンチンの大河ラプラタ河の河口付近は、霜が降りて一面冬景色であった。
農家の主人ペレスサントス氏は、飼犬のメレンゲの仔犬たちがひどく騒いでいるので、眼を覚ました。
犬小屋のある納屋の内部に這入(はい)ってみると、一寸(ちょっと)のことでは驚かないサントス氏も尻餅をつくぐらい驚いた。
それもその筈(はず)、見も知らない人間の赤ン坊が、メレンゲの乳房に吸い付いているではないか、元気良く乳を吸う赤ン坊にも驚いたが、見も知らぬ人間の赤ン坊に乳を吸わせる牝犬の、平然とした顔付きにビックリしたのである。
最初はイタズラ好きの家の娘達の悪戯(わるいいたずら)かと思ったが、そんな筈(はず)はない。第一ドコの家から赤ン坊を持って来られるのか?そんなことは出来ない。
***これはトンでもないことだ。*** 寝呆け頭のペレスサントスも漸く只事ではない、と気付いた。
それにしても、この赤ン坊はどこから持って来たのか?
納屋の外へ出て周囲を調べても、形跡(けいせき)も見当(みあた)らない。
漸く駈け付けて来た保安官も、思案投げ首である。
どうもメレンゲが、何処からか赤ン坊を運んで来て、自分の小屋に引き込んで仔犬たちと一緒に乳を飲ませていた様子である。
保安官の活動が始まった。
幸(さいわ)いなことにその段階で、赤ン坊の母親が判明した。
近所の14才の少女が産み落したのである。然し親に内緒のことだから、誰にも云えない。
トウトウ真ッ暗闇(くらやみ)を幸いに少女は裏庭で秘(ひそ)かに生んで、そのまま自室に帰って寝て了った。
その後メレンゲが暗ら闇に蠢(うごめ)く赤ン坊を見付けてサントス家の納屋まで運び、自分の仔犬と一緒に授乳していたことに成る訳だが、少女がお産をした場所からサントス家までは200メートルはある。
誰がどのような運搬手段で赤ン坊を運んだかという問題に就いては、サントス氏は勿論、近所の誰も明確な推論をくだせる人はいなかった。
自然は時として不思議なことをするものである。
私はこれを佛作佛業だと思って自分なりに納得している。そうでもなければ、産み落とされた赤ン坊が可哀相すぎる。
「仏さまがお救いくださったのだ」と、その記事を載(の)せた新聞を三拝してから鈴(りん)を三ッ鳴らして、感謝の心を捧げた。
(それにしても母犬の貴いことよ。)
時として見せる動物の仕草のなかに、キラリと光る「仏性の輝き」を観(み)ることがある。吾々は、「人間対動物」として相対的に視(み)て、偶然の所為(おこない)として見すごして了うが、そのような視方(みかた)は「彼等(ら)動物が、我々人間と同じ思考をし判断をして、行動をとる筈はない。」という勝手な断定に墜(お)ち入っているからである。
動物愛護といいながら、動物の心を理解することが出来なくなって了ったのか、人類の永い歴史のなかで、動物の「清らかな愛の信号」を感じとることが出来ないまでに、吾々の心が歪(ゆが)んでしまっているのではないか。
と反省させられた「新聞の記事」であった。
仏典で説く「悉く仏性を有す」という言葉が、ズシンと胸に響いたことであった。