寺伝によれば、
雨引観音は五八七年の開山であるが、中古衰微して、鎌倉時代の文明六年(1,254)後嵯峨天皇の皇子で鎌倉幕府の将軍であった宗尊親王さまの御寄進によって、観音堂・多宝塔(当時は三重塔)・仁王門・鐘楼堂・上動堂・地蔵堂・御供所・客殿の七堂が再建された。
これには深秘ないわれが伝えられている。
建長五年四月、宗尊親王は輿を連らねて鎌倉から当山に参詣された。
当時京の都においては長谷詣が流行していた。
長承元年(1,132)五月には鳥羽天皇が長谷寺に二十三日間の参篭をなされた。
この時代の時代的流行は“観音まいり”であった。
そのような訳で宗尊親王も雨引観音まいりを発願し、四月の陽光を楽しみながら筑波路を旅せられた。
その当時の雨引観音さまは「雨引山中顕寺」と号し、常陸国(現在の茨城県)随一の霊場であり、奈良興福寺の末寺として法相宗に所属していた。
かつて宗尊親王さまは・・・
後嵯峨天皇の皇子であられ、京都の御所にいられたときは、今は亡き母君さまと清水寺の観音さまにお篭りしたこともある“観音さま”大すきな方でもあられた。
だから鎌倉将軍として関東へ下向せられた昨年から、是非雨引山にお詣りしたいと念願せられていたのである。
それは、平安の昔弘仁十二年嵯峨天皇が宸翰を寄せて雨引山を勅願寺とせられ、更らに雨引山の山号を定められた、因縁深い寺であったからでもある。
雨引山はそれ以前の聖武天皇・光明皇后の勅願の寺であり、現に宸筆も寺宝として伝えられている「聖なる寺」なのである。
参篭せられて雨引山の霊気に触れ、夢の中に延命観世音菩薩を拝した宗尊親王は、鎌倉に帰還せられるや、亡き母君の菩提のため雨引観音の堂塔の再建を発願せられて造営奉行に結城朝広を命じ、造像の仏師に湛慶を指命して建長五年十月に発令した。
かくして翌年十一月、当時関東随一といわれた雨引観音中顕寺の諸堂が目出度く竣成し、七堂甊を並べ軒を連らねて雨引山上に威容を現わすに至ったのである。
その後百六十年の時が流れる。
雨引山中顕寺は雨引山安養院楽法寺と号するに至る。
それは真言宗の大阿闍梨吽賀和尚から法を嘱せられた吽永和尚入山して中興第一世となり、寺号を雨引山楽法寺と称したからである
雨引山は法相宗から真言宗にかわった。