奥州(岩手県)平泉を発足した源義経一行は、一路南下して治承四年(1180)秋も深まる十月、常陸国(茨城県)筑波山の北の雨引山楽法寺に入った。当時雨引山は南都(奈良県)興福寺の末寺として、興福寺別当一乗院門跡の支配下にあり、平家の勢力に対し批判的立場にあった。特に義経の家来弁慶は、紀州(和歌山県)熊野神宮の別当僧(平安時代以降明治二年に到るまで神社と寺院は一体であり神社には別当の僧侶がいた)湛増の息子であり、南都の寺院とは上可分の関係にあったので、当山に参籠して戦勝を祈願したのである。
特に弁慶は観音の信仰心の篤い人であったので、弁慶自ら筆を執って書写し、平泉から捧持して来た法華経を納めて武運を祈願したと伝えられている。
源頼朝(義経の兄)挙兵に応じて駿河国(静岡県)の黄瀬川に急ぐ旅路にありながら、猶あつい観音信仰の思いをたぎらせて雨引山楽法寺に参籠した源義経と武蔵坊弁慶の姿を考えると、中世の武人の信仰生活が偲ばれる思いである。
現在武蔵坊弁慶の法華経の写経は、815年の星霜を閲して、弁慶のあつい想いを現在に伝えているのである。
雨引山楽法寺には、弁慶の写経の外に聖武天皇の后光明皇后(701-760)の写経と嵯峨天皇(811-823)の写経とが寺宝として現存している。特に弁慶の筆致は優雅にして、武勇の大男のイメージとは異なるセンサイな筆の運びで、みる者をしてタメ息を吐かせるような美しい筆跡である。
雨引山楽法寺では、今のところは展示の予定はない。
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左から嵯峨天皇・光明皇后・武蔵坊弁慶